大好きな時代劇(小説)「剣客商売」に狂乱という回があります。
重苦しいストーリーと悲惨な結末になんとも辛い思いはするのですが、秋山小兵衛が師匠として諭す言葉がなんとも味があってよいものです。
内容は、足軽という身分に比して強すぎる腕前を持ったがために、うとまれ、踏みにじられ、孤独においこまれた本多丹波守の家人で無敵流の剣客・石山甚市。
石山甚市は、やさしく扱ってくれたのは親と剣の師匠だけであったが、醜男で足軽の身でありながら無敵流の剣の達人であるがゆえに、武士仲間から恨まれ・疎まれて過ごしたために心が捻じ曲がった剣客となってしまった。
‥という感じですが、
甚一に対し、小兵衛は‥。
「お前さん、そんなに死にたいのかい。己の気持ちの赴くままに刀を振り回して斬ったり、斬られたり、それが真の剣の道か。今の世の中、剣の道を極めたところでいったい何になる。ともすればひとかどの剣士になることが、かえって己の生涯を誤ることにもなりかねん。」
「一昨日お主が路上で手にかけた侍な、木村何某という黒田藩の侍で、剣の腕を買われて士官がかなった新参者だったそうだ。ところがあのような死に方をされては藩の名にかかわる‥。遺体は引き取るが下手人の探索は無用‥、一切無かったことにしてくれと申し入れがあったそうだ。どうじゃ、剣によって立つものは、剣によって滅ぶ。哀れなものではないかい‥。」と諭す。
まったくそのとおりです。真の武道は人生の糧になるべきものです。‥がしかし、そのことを理解している指導者(師)は少数だと思います。
競技、そして格闘技を志す者は指導者としての技量を求めて道場を選ぶべきです。しかし、自身の人生の向上、糧を願う者は、人間性の高い敬虔な人物を求めてほしいと思います。
さて、その後、哀れに思った小兵衛は、大治郎の道場で一緒に稽古をしようと石山を誘う。
「わしと一緒に稽古をすれば生き返るぞ。 真の剣術というものは、人を生かし己も生かすものじゃ。 己の強さは他人に見せるものではない、己に見せるものだ。このことを忘れるな。」
その後、甚市は、「あのような人がいるんだなぁ。(小兵衛のことが)大きくて豊かで‥、何もかも包んでくれそうな、あのような人が‥。あの人(小兵衛)についていけば、‥そうすれば確かに‥、俺にも新たな道が見いだせるかもしれん。今とは別な心静かな道が‥。」 そう思った石山は、小兵衛の門人になることを決心した。
秋山小兵衛はその胸中を思いやり声をかけてやろうとするのだが、一足遅く、侍は狂暴な血の命ずるまま無益な殺生に走る‥、狂った甚一に対し、小兵衛は約束した稽古と称し、やむなく斬ることに…。
悲しい話です。
深くは申しません。
武道とは、剣とは、次の言葉に集約されていると思います。
「剣道では島田虎之助が『それ剣は心なり。心正しからざれば剣また正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は先(ま)ず心より学ぶべし』と言っている。心が正しければ正しい技、正剣になり、『心正しからざれば』。つまり邪心だとごまかし稽古になる。だから剣を志した者は先ず心を正しくせよということにである」 小川忠太郎剣道範士
心というのは、正しくしようと努力すれば正しくなるし、放任しておくと糸の切れたタコのようになります。「放心を求めよ」と孟子が言っているように、自分の方へとって返す努力が大事です。
しかし心を正しくすると言っても、心というものは、どこにあって、どんな形をしたものか、それを知らずに平常心などと言ってみても、それは本質を欠いたただ言葉に過ぎません。釈宗活老師も
「心とは自己なり」と言っています。結局のところ、心というのは自己、自分のことでしょう。
武道の本質とは、ここにあるべきだと信じます。
武道とは、心を宇宙の法則に合致させ、よりよい人生を歩ませることが本質です。
武道と競技の違い、ここのところを誤らないように努めたいものです。
【リンク】
◇宮崎合気道会グループ「合気道元徳会」
◇合気道元徳会ブログ「合気の舞」
◇合気道元徳会道場長コラム「サムライハート」
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