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2018年2月19日月曜日

合気道の姿勢「反身(そりみ)」

 少し前、少しだけ姿勢を変えてみました。



 昨年までは、太極拳等の中国武術でいうところの「含胸抜背」の姿勢をなんとなくとっていました‥が、何かほんの少し‥、しっくりきていない気がしていました。私には、この姿勢は合わなかったようです。


 そこで改めて日本武道の名人と呼ばれる方の姿勢について、残っている写真を通じて研究したところ、その結果、共通点が「反身!」であることに気づかされました。


 そうです。日本武道には、元々、反身(そりみ)という姿勢があったことをいつの間にか忘れていたようです。


 さて、この反身というものは、安易に間違った解釈をしてしまうと、不自然に胸を張った感じの姿勢になってしまい身体運動などによくない影響を与えがちだと思われます。一番の問題は、うまく重心の位置が安定しないということ。


 しかし、逆に丹田の充実感を保ち、しかも両脚が自由自在に動くには、「反身」がかかせないという高名な空手家もいます。また、重心が安定しにくいということは、居着かないということでもあり、そのことは逆に利点だとも考えられます。


 それでは、具体的な反身の姿勢とは?


 合気道開祖植芝盛平翁の姿勢‥、あの姿勢が「反身」です。
 立派なお手本が身近にいらっしゃいました。


 そして、下記の写真の本部御殿手武術の上原清吉師範の姿勢。


 「素晴らしい‥」の一言‥。


 この反身の姿勢が丹田の充実感と浮身を際立たせています。
 柔らかいがとても威厳のある実に美しい立ち方だと思います。


 そこで、私も反身の姿勢をとってみることに‥。


 この姿勢の取り方、今まではしっくりきていなかったのですが、今回はジグソーパズルの最後のピースがようやくカチッと決まった感があります。


 ようやく体感的にも直感的にもしっくりきました。


 “私の場合”は、これでいいようです。



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2017年7月31日月曜日

武術心法7

 「心法」とは心の働きの総称のことです。


 また、意識を用いたテクニックを「心術」と表現します。


 そして、極意とは、意識(無意識の領域を含めた)の働きを極めることと考えられます。


 さて、合気道の目的は「至誠の人」を育成することにありますが、二代目道主である植芝吉祥丸先生は「武道家のこたえ」という書籍の中で、合気道の目的を次のようにも述べられています。


 『コマが回る状態に例えていう「澄み切りの境地」を求めるのが合気道の目的ということです』


 ‥なんと合気道の目的は、「澄み切りの境地」に至ること!だったのです。


 この「澄み切りの境地」は、「明鏡止水」という別表現もあり、一般的にはこちらを使用しますね。


 参考までに、出典は荘子と言われていますが、辞書によると「曇りのない鏡と静かな水。なんのわだかまりもなく、澄みきって静かな心の状態」のこと。


 武道的には、「心の鏡を磨ききって、相手の心の動きが分かる境地」と言えるのでしょうか。


 結局のところ、日本武道の目的は「澄み切りの境地」や「明鏡止水の境地」に至ることであり、武道家が晩年に禅を組んだり、滝行をしたりなど様々な宗教的行法を行うのもここの重要性に気づいたからなのでしょう。


 達人と呼ばれる方が、最終的に宗教家なのか武道家なのかよく分からなくなったりするのも、これが原因だと思われます。


 さて、「澄み切りの境地」に至ればどうなるのでしょうか?


 それは、武術的にはいわゆる「後出しじゃんけん」が可能になるようです。
 敵の攻撃が未然に察知でき、その攻撃を未発に終わらせることが可能になる・・・。


 合気道開祖の話に、「キリスト教では右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさいと教えているが、合気道では、右の頬を打ってくれば、それを未然に察知し打たせないことで、自分も被害を受けずに相手に罪を犯させない」、というようなものがあるのですが、本当に素晴らしい思想だと思います。


 私もこのような境地に一歩でも近づきたいと考えています。


 最後に、古流剣術の言葉、

 「雲晴れてのちに光るとおもうなよ もとより空の有明の月」


 「武術心法」終わり


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2017年7月24日月曜日

武術心法6

 このようなことで、“空間的な崩し”には、いわゆる「読み」という技術が最も必要になります。


 いわゆる心眼が開く必要があると言うこと。


 ここでようやく「一眼、二足、三胆、四力」の順番の重要性が理解できることになります。やはり、目が大事!


 この「読み」には、①「相手の構えや体勢の崩れなどから相手の攻撃を把握する技術」と、②「観の目といわれる一種の予知能力に近い、相手の攻撃が未発のうちに理解できる技術」に分かれます。


 なお、「観の目」(感性の目、心を読む目)とは、「自分の心で、相手の心を感じる」手法だと考えています。


 ご存じの方も多いと思いますが、合気道開祖植芝盛平先生の逸話として、銃弾を避けることができたというものがあります。


 内容は、「弾が飛んでくる前に“黄金の弾(玉ではない)”が飛んでくるので、これをよければいいんじゃ」という話ですが、私は、この観の目の延長線上にあるものではないかと考えていますが、皆さん、いかがお考えでしょうか。


 それでは、「観の目」はどのようにしたら身につけられるのでしょう?


 これについて、古武道の伝書などで書かれているものを集約し現代語に訳しますと下記の通りになります。


 それは、「姿勢を整え、思考回路を縮小し、耳を澄ましていくことで、脳内ではその瞬間、何者にもとらわれずに集中しきっている状況が生まれる。これを持続させていけばよい」ということです。


 皆さん、禅と似ていると思いませんか。


 きっとこのような理由で、禅との密接な関係が生まれたように思われます。


 また、一見意味の分からない短い言葉を唱え続けることでも同様の効果が生じるようです。


 祝詞や念仏などを唱え続けてみるとよくわかりますが、いつの間にか何も考えていないような状態が生じます。


 このことを私は、タイ捨流で悟りました。


 なお、私には科学的な説明はできませんが、このような状態を維持し続けることで、その瞬間は目標対象物に対する感度が上昇するようです。


 しかし、「澄み切り」(明鏡止水)の状態から、心が少しでも動揺した時点でその感度は急降下します。


 このことを表現した言葉、

 「濁り江にうつらぬ月の光かな」 善吉和尚


 そして、このことの重要性に気づいた人の言葉、

 「稽古とて外に求むる道もなし 心の塵を払ふばかりぞ」 示現流兵法


‥つづく


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2017年7月17日月曜日

武術心法5

 “空間的な崩し”とは、さまざまなパターンが考えられますが、紙面の関係上、一例に絞って説明したいと思います。


 これは、私が 「キックミットの理」 と呼んでいるものなのですが、例えばDさんが、Eさんの練習のためにキックミットを持って蹴りを受けていたとします。


 Dさんが「この場所に蹴れ!」と叱咤(ポイント)します。


 Eさんは、その位置に思いっきり蹴りを放ちます。


 しかしDさんは、Eさんが蹴るときの「け(る)」のタイミングでキックミットの位置をわずか15センチほど移動させたとします。


 Eさんは、蹴るの「け」の字のタイミングで目標地点が移動したためうまく蹴ることができません。


 またまた、妙な例えで恐縮なのですが、弓でも吹き矢でもよいのですが、的を狙っていて、“いまだ!”の「い(まだ)」の字のタイミングで的がずらされたとしたら…、きっと身体機能にパニックをおこし力が発揮できなくなることでしょう。


 つまり、相手から狙われている部分を未然に察知し、殴るの「な(ぐる)」の字のタイミングで、狙われた部分を移動させるのです。


 また、この瞬間に相手が物理的に崩れる位置に移動するとさらに効果を発揮します。


 本当の体捌きとは、このような技術のことを言うのではないかと思います。


 宮本武蔵は、五輪書に攻撃の「こ(うげき)」のタイミングを押さえて何もさせないことを「枕を押さえる」と表現しています。


 ちなみに先ほどの例は、枕を押さえずに崩しに応用した一例となります。


 この技術には、「空気が読める」ということが必須条件で、しかも、相手が自分のどこを狙っているのか把握できる知覚レーダーが過敏すぎるくらい発達している必要があります。


 何か文章にすると小難しく聞こえますが、剣道などの打突系の武道をされた方には当たり前の技術で、いつの間にか自然に覚えていたテクニックの一つだと思います。


 また、私は、仕事の交渉術として使っています。


 例えば交渉中に、相手が「お断り」など言いにくい事案をどのタイミングで切り出そうかとモゾモゾしているのを察知し、「さて、言うぞ!」の“さて”ぐらいのタイミングで、「あーそういえば…」と話を他の話題に切り替えてしまうのです(笑)。


 きっと、社会人の皆さんは心当たりがあるのではないでしょうか?
 でも、やりすぎると嫌われてしまいますね。


 また、飲み会の席などで、「グラスが空になりそうだけど自分で注ぐのも…」という意識を感じて、ボトルを差し出すのも同じ道理です。


 しかし、実際の打ち合いで使用するのはなかなか骨が折れることです。


 このような技術は、相手とのレベルに歴然とした差異がある場合、若しくはその技術がハイレベルな場合でしか効力を生じません。


 そして、最大の欠点は、心が動揺した時点で効力が生じなくなってしまうことです。


 つまり、このような技術の欠点は、自分より上手の相手には一切通用しないということ!


 やはり「生兵法は怪我のもと」のようです。
 ご注意を‥。


‥つづく


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2017年7月10日月曜日

武術心法4

 「術」を「道」にまで昇華させた剣聖の創造した兵法とはいかなるものなのでしょう?


 さて、ここでAさんがBさんに勝利する二つ目の考え方がでてきます。


 それは、Aさんが“戦闘力100”を保ったまま、Bさんの“戦闘力100”を、なんらかの技術を用いて、“戦闘力50”に落とすなど、戦闘力を減少させてしまう勝ち方です。


 これでAさんの戦闘力がBさんを上回り、戦いに勝利することが出来ます。


 私は、この相手の「戦闘力を減少させる技術」が、日本武道における兵法の根底になったものだとみています。


 何か小難しく書いてしまいましたが、そんなことはありません。


 私たちの合気道や柔道などで用いる「崩し」と呼ばれる技術が一つの例として挙げられますす。


 この「崩し」にも、実は“物理的な崩し”と“空間的な崩し”が存在し、その「空間的な崩し」には心術が用いられます。


 “物理的な崩し”とは、合宿などで説明している「ドラムカンの理」と呼んでいるものが代表されると思います。


 これは、「B地点からC地点にドラムカンを移動させたい場合にどうするか」を考えると理解しやすいため、例えとして「ドラムカンの理」と表現しています。


 さて、この場合、ほとんどの人はドラムカンの側面を押して斜めにし、地面に接地する部位の面積を減少させることでドラムカンを体感的に軽くし、底面の縁をコロコロとさせながらC地点まで移動させると思います。


 これが「ドラムカンの理」。


 この理を武術に応用すると、相手に接触した瞬間に、相手の重心をつま先か踵に一瞬で移動させ、相手が 「つま先立ち」 もしくは「浮いた」 状況をつくりだすと相手は一瞬ですが、物理的にも精神的にも居着いた状態になります。


 私はこれを「物質化する」とか「モノ化する」と呼んでいますが、この状態になると思考回路は一瞬だけ寸断され、かつ身体は硬直化します。


 この時を逃さずに、斬ったり、突いたり、投げたり、倒したりするのが基盤となり構成されているのが“物理的な崩し”を用いた戦闘法です。


 なぜ、思考回路が一瞬寸断され、かつ身体が硬直化するのでしょうか?


 私には科学的な説明はできないのですが、人間が何かにつまずいて転ぶ瞬間というものは、急激に身体を支える重心がなくなることで、身体機能が一瞬機能しなくなるのではないかと考えています。


 また、「溺れるものは藁をも掴む」にありますように、身体機能が一瞬パニックを起こすと言う風にも考えられます。


 例えは違いますが、人によっては、実際に掴んでいる手がくっついたまま離れなくなることもありますね。


‥つづく


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2017年7月3日月曜日

武術心法3

 結局、石ころの投げあいや棒切れなどを持っての戦いに始まった闘争が、集団になることで戦争になり、敵より強い武器や戦術を開発することで戦闘能力を上昇させ続けていく。


 21世紀である現代は、その過程で核爆弾・化学兵器の開発に至り、悲しいことに自らがその脅威にさらされ続けている・・・。


 愛するものや家族、そして、国家を守るため、また、誇りを失わないため“戦闘能力を上昇させ続ける”という殺し合いの螺旋に陥り、ついには、核兵器の開発に至ってしまったのでしょう。


 フランケンシュタインを創った科学者の「こんなはずじゃなかった」という嘆きに似ていて、なんともやりきれない気がします。


 しかし、悪い面ばかりでもありません。


 ヒッタイト人による鉄の発明や中国での火薬の開発、そしてインターネットが米国の国防総省による軍事目的での開発が趣旨だったなど、人類に大いに貢献してきた歴史であるとも言えます。


 それはさておき、人類の歴史は戦争の歴史と言われるように、この“殺し合いの螺旋”から抜け出ることは容易なことではなさそうです。


 さて話は変わりますが、なんでも幼少の頃、自分がいじめた(全く記憶にない)らしい相手から数十年後の同窓会の席で「やまいもを掘られる」(酒の席で絡まれるという意・宮崎弁)ことでもその難しさがよく理解できます(笑)


 少し脱線しましたが、日本では、戦国乱世に生きながら、在る時、この殺し合いの螺旋の無意味さや滑稽さに気がつき、相対的な術を越えることで法を志向し、武術を兵法、そして道へと昇華させた人物がいました。


 その代表的な人物として、新陰流兵法を創造し剣聖といわれた上泉伊勢伊守藤原信綱 がいます。


 さて、この昇華させた過程について、新陰流・武術探求会の前田英樹氏は下記のように述べています。


 「ある術を身につけて少しでも達者なほうが勝つとか、ちょっとでも油断したら負けだとか、あるいは石につまずいたら負けだとか、そんなことで命を捨てるというのはやり切れない。そういうことだったと思うんですよ。

 たとえば誰かがある技を編み出した。それに対して別の者がそれに対抗する技を考える。または、上回る技を考える。

 技術と言うものは際限なく更新されていくんです。心理戦にしたってそうです。技術の相対性から抜け出せない。いったいどうすればこの世界から脱出できるのかそういう一種の祈りに似た思いから、兵法が生まれたのだと思います」


 この「なんともやりきれない気持ちや一種の祈りに似た思いから兵法が生まれた」という表現は哲学科の教授らしく、たいへんわかりやすく、これ以上にない素晴らしい表現ですね。


‥つづく


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2017年6月26日月曜日

武術心法2

 随分以前のこと、一時期、政治家の秘書として、国会を中心に、興味本位から政治の世界を見てまいりましたが、その時の感想が「武術の戦いと似ている‥」というものでした。


 政治の世界では 「政治は力、政治は数」という単純な言葉が真理であり、学生時代に教わった「この世は民主主義の学校」なんていうのは嘘‥、権力闘争こそが政治の真実だということを学びました。


 “物知りのおちょぼ口の青っ白い正義感”などは数の力の前に一蹴され、悲しいかな負け犬の遠吠えの如き扱いを受ける‥。


 政治の世界は、「正しいことをしたければ偉くなれ。 良いことをしたければ数を集めろ」 が真実だと言えます。残念ですが、制度的にそうなっています‥。


 このため、還暦を過ぎた方々が白髪を黒々に染めあげ、しかも整髪料でギラつかせ、周囲を睥睨し威圧する。


 しかし、、負け犬も負けたばかりでは終われない。


 奮起した負け犬が真実を学び、その真理を実行することで勝ち組を追い詰め、ついに自分が勝ち組に成り代わる。


 しかし、この世は栄枯盛衰、盛者必滅‥。


 せっかく手に入れた勝ち組のポストも、自分が追い詰めた以前の勝ち組から追い詰められ、長年かかって手に入れたポストを追われていく。


 でも、臥薪嘗胆、いつかまた‥。


 際限なく権力闘争の螺旋が繰り返されていく‥。


 少々さびしい気がするのは私だけでしょうか?


‥つづく


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2017年6月19日月曜日

武術心法1

 問題です。


 AさんとBさんが戦うことになりました。

 Aさんは、仮に戦闘能力を「100」持っているとします。

 Bさんも同じく戦闘能力を「100」持っています。

 なお、個々の戦闘能力は、一長一短なく同じレベルです。

 さて、Aさんは、Bさんとの戦いにどのようにすれば勝つことができるのでしょうか?


 ‥勝負というものは相対的なものですので、実際の戦いには戦闘能力以外の要素も加わってきますが、それはさておき、一般論として2種類の考え方があるのではないかと思います。


 一つ目は、戦う期日まで時間がある場合には、Aさんは戦闘能力を高めるためにトレーニング等を重ね、「戦闘能力100」を『戦闘能力120』に高める努力をするはずです。


 このトレーニングにより、AさんはBさんを超えた戦闘能力で戦いに勝利することができます。


 このことは、車のF1レースの世界で、飛躍的にエンジンの性能を伸ばすことで馬力を大幅にアップし、その馬力でレースに勝利することに似ています。


 また、太平洋戦争において、ゼロ戦対米軍戦闘機の戦いで、操縦の技術ではゼロ戦がかなり上!と言われながら敗北したことにも似ています。


 生半可なテクニックや精神力では、残念ながら多大に上回る馬力や勢いに通用しなかった例ですね。


 この欧米的な考え方は、たいへん有効です。
 世界の歴史が証明しています。


 例えば、某フルコンタクト空手の流派がパワー空手を推奨し、ウェイトトレーニングやサーキットトレーニングを取り入れ一世を風靡したのも有効である証でしょう。


 さてここで、もう一度考えていただきたいのですが、実はBさんが大金持ちで、潤沢な資金を活用し、世界中から名トレーナーを集め、Aさん以上に科学的なトレーニングを行いながら、世界最高のテクニックを学ぶことで「戦闘能力が150」にアップしていたとしたら?


 Aさんは、Bさんの餌食となってしまうことでしょう。


 パワーは年齢とともに衰え、技術は限りなく進化し更新されていきます。


 次にあなたは、「戦闘能力200」を目指すのでしょうか・・・。


 ‥つづく


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2016年4月11日月曜日

八卦掌と意拳、そして合気道(下)

 最後に意拳(大成拳ともいいます)について書いてみたいと思います。


 歴史的なことや基本的なことは下記の参考でご確認ください。


<参考>
http://www.h2.dion.ne.jp/~shokubak/yiquan2.htm

http://www.h2.dion.ne.jp/~shokubak/yiquan3.htm


 さて、意拳ですが、日本では太気拳、正式には太気至誠拳法といったほうが分かりやすいかもしれません。


 太気拳創始者の澤井健一先生が戦前、意拳創始者の王向齊先生に学び、日本に持ち帰って新たに創始したのが太気拳です。しかし、その頃は拳法を集大成させたという意味から意拳ではなく大成拳と言われていたようですね。


 この拳法は、厳格な型を学ぶ「形意拳」から生まれたのですが、型がありません。
 型を廃止したというほうが正確でしょう。


 王向齊は本質論者であったようで、極端なことを言えば、型を廃して気功で本質的な動きを練り、そして組み手だけというなんとも一見単純な拳法を編み出しました。


 しかし、困ったことに逆に難解になってしまいました。


 例えば、どう突けばいいのですか? と質問すれば、


 「あなた自身が叩きやすいように」と返答がきます。


 最近はボクシングを取り入れた北京の「姚宗勲」先生の影響でボクシング的な突きを教える道場が多いようですが、本質的には突き方さえ決まった型がありません。


 突き方一つとってもその人の体質や気質によりそれぞれ異なる! ‥という考え方なのです。


 さて、その意拳、形意拳から生まれたのですが、形意拳には全く似ていません。


 どちらかというと白鶴拳(特に食鶴拳)に似ています。


 これは、王向齊先生が中国全土で武者修行を行い、その土地、その土地で挑戦者を募り、試しあうことで少しずつ自身の拳法を改良してきたためだと思われます。


 この武者修行中に白鶴拳、梅花拳、少林拳(心意把)には負けたことがあるようで、これらの拳法は特に研究したそうです。


 しかし、一番研究したのはどうも八卦掌のようです。


 程派八卦掌の創始者である程廷華とは実際に交流があったようで、八卦掌修行者に対して「八卦掌は単換掌と双換掌だけをじっくり研究・修行しなさい。後は必要ない」と助言しています。


 以前にも書きましたが、八卦掌の型は、各流派間でかろうじて似ている場合があるのが型の1~2本目の単換掌と双換掌なのです。


 これらはとても簡単で短い動きの型です。

 特に単換掌なんかは歩いていて方向転換するだけなので、型と表現してよいものかは疑問なぐらいです。


 いったい董海川自身の八卦掌は、どのような武術だったのでしょうか?


 興味が尽きません‥。


 意拳の王向齊先生が八卦掌を研究していたらしいとの話はしましたが、ここで意拳と八卦掌の共通点を述べてみます。


 意拳は、
 站樁→摩擦歩(歩法)→試力→発力→推手→散手(組手)→武器術


 八卦掌は、
 站樁→走圏→換掌式→走圏(歩法)→八母掌→掌法変化→推手→散手(組手)→武器術
 ※流派により異なります。


 具体的には両武術共に武器術を除くと、
 気功法 → 歩法(気功) → 技術鍛練 → 推手 → 組手


 ‥これだけのようです。
 無駄のないシンプルな武術‥。


 見た目的には全く異なりますが、本質的には同じ武術だと考えられます。


 もちろん意拳は站樁(気功)重視、八卦掌は歩法(気功)重視で修練の比重の置き方は異なりますが、両者ともに内功重視であることは間違いないので、きっと王向齊先生が八卦掌をヒントに武者修行で出会った他の武術を取り入れながら意拳を構成していったのではないかと考えられます。


 また、意拳は八卦掌の修練形式を、よりシンプルにしていったとも言えないでしょうか?


 ちなみに王向齊先生は「太極拳の動きや修練方法の無駄?」に対して「形骸化していて使えない」と痛烈な批判を繰り返しています。


 私は、太極拳には太極拳の良いところがあると思うのですが、実際に中国全土で戦ってきた王向齊先生としては、レベルの低い師範が使えない技術や無駄な修練方法について大家気取りをして教えているのが耐えられなかったのでしょう‥。


 しかし、八卦掌と意拳、両者ともにとらえどころのない武術ですね。


 この二つの拳術は、中国武術の精華、そして最高峰と言われるように境地的にもかなり高い武術だと思います。


 単純に言うと、


 中国武術の粋を集めたのが八卦掌や意拳、
 日本武術の粋を集めたのが合気道、


 ‥だと勝手に思っています。


 きっと両者共にそこが魅力なのでしょう。


‥完


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2016年4月4日月曜日

八卦掌と意拳、そして合気道(中)

 空手で例えると、剛柔流のサンチンや少林流系統のナイファンチ(鉄騎)は、誰が見てもほぼ同じです。


 また、形意拳の五行拳、十二形拳も個性はあるがほぼ同じ。


 通背拳、八極拳、太極拳‥、風格や速度の違いはあれど、演武を見たらほぼ「これは何拳!」と分かります。


 しかし、八卦掌はよく分からない。


 円をくるくる回る走圏だけは共通しますが、八卦掌なのに蹴りが主体の流派があるのはまだ許せるほうで、困ったことには地面を転げまわる流派まであったりする‥(笑)


 「これはなぜ?」


 結局、武名の高い董海川には入門者が絶えなく、しかも入門者は、既に道場主だったり、その道の大家といわれる人物ばかりだったそうです。


 このため董海川は、「各入門者が学んできた武術を演武させて、その武術を八卦掌の理合を基軸に再構成させ、そして走圏の法を伝えた」というのが真理のようです。


 ちなみに走圏の法とは、歩くタイプの気功法で道教の一派の修練法です。。

 
 武術的効果も高いと思います。


 結局、武術の理に合わないところを正してやり、武の道理を理解せしめたということでしょう。


 このため、蹴りの多い武術を学んできた入門者の流派には蹴りが多く、また、地面を転がる武術を学んできた入門者の流派は、地面を転がる技が残っているということなのです。


 さて、このような話を聞くと植芝先生と神道自然流空手開祖の小西康裕先生の逸話を思い出します。


 空手・古武道など様々な武術を修練してきた小西先生、有名な植芝先生に指導を受けることになりました。


 植芝先生の前で、空手の型を披露したのですが、植芝先生は納得しない様子‥。


 それから、植芝先生の示唆(体さばき)をヒントに型を見直し、再度植芝先生の前で演武することになりましたが、そこでようやく認めていただけたとのことです。


 これも、八卦掌開祖董海川の伝説に似ていますね。


 お二人ともそれだけ高い境地だったのでしょう。


 さて、面白いのが山岡鉄舟先生‥。


 自身が印可を受けた剣・禅・書だけでなく、落語家や男芸者(太鼓持ち)などにも指導しており、さらには、なんと明治天皇に帝王学まで授けています。


 凄い男がいたものです。


 こういう話を聞いて思い出すのが、仙台藩に伝わっていた抜剣(ぬぼこ)影山流の十九世である天野菊之助先生です。


 有名な天野先生に既に名の通っていた一刀流の剣客が入門することになりました。


 天野先生は、この剣客には、影山流の技は教えることなく、一刀流の型を一本一本演武させ、剣の道理に合わない部分を修正し、影山流の伝書を授けたといいます。


 国や時代が異なっても、一芸を極めた名人の見識は同じようです。


 資料が乏しいので断言はできませんが、新陰流開祖である上泉伊勢守信綱も同様な指導をされていたような感じがします。


 「ある一定の技(理合)の伝授をして、後は勝手にやんなさい」という風に見受けられる気がするのは私だけではないでしょう。


 さて、ある古武道の師範が言っていたのを思い出しますが、


 演武を見て「あの演武しているのは、○○師範のお弟子さんですね」と見透かされたら、「師範も弟子もつまらない証拠」と言っていました。


 極論ですので、このとおりには受け取れませんが、この師範が言わんとすることは、その師範の悪いところについて「本質的なことではない形式的なことを中心に教えていた可能性がある」こと。そして、弟子の悪いところは、「本質的なことを学ばずに師範の悪い癖を学んでいた可能性がある」ことだと思います。


 額面どおりには受け取りませんが、これも一つの見識だと思います。


 なお、下記のコラムは八卦掌の理解を深めるには、なかなか面白いことが書いてあります。参考までにどうぞ。

<参考>
http://www.h2.dion.ne.jp/~shokubak/baguazhang2.htm


‥つづく


【リンク】
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2016年3月28日月曜日

八卦掌と意拳、そして合気道(上)

 中国武術に八卦掌と意拳という新しい拳法があります。


<参考>
八卦掌
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%8D%A6%E6%8E%8C
意拳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E6%8B%B3


 特に学んだわけではないのですが、なぜかこの二つの流派に惹かれ研究を続けてきました。


 さて、この二つの流派の共通点が面白い。


 「型(形・套路)がない」のです。


 こう書くと「八卦掌はあのくるくる回る有名な型があるじゃないか?」と言われてしまいそうですね。


 でも本質は「型がない!」のです。


 八卦掌の各流派を比較したことがある方ならご理解いただけると思うのですが、創始者董海川から学び伝えたという型が円周上を歩くという共通点以外は全くと言っていいほど異なっているのです。


 代表的な八母掌という8本の型は、かろうじて1本目と2本目は似ている場合もありますが、3本目以降はまったくのバラバラです。


 解き明かす鍵は、同じく「合気道には型がない」と言った合気道開祖の武術の本質論に行き着くようです。


 しかし、こう言うと、「合気道には、いつもやっているたくさんの型があるじゃないか!」


 ‥とお叱りを受けそうですが、本質的には型はなく「理合」しかありません‥。私はそう思っています。


 理合とは道理です。
 

 他の表現では、「勝つ道理、勝つ法則」のこと。


 合気道の技術の一つひとつは、あくまでその理合の表現でしかありません。
 

 このため、昔の師範の技は「同じ人にならったと思えないほどバラバラ」で、凄く個性的ですね。


 しかし、最近は本部系統の動きが多くなっているので、それぞれの師範系列独特の個性は失われつつあるようです。


 少し寂しい気もしますが、個性とは一つの癖でもありますので、このことが「良いことなのか? 悪いことなのか?」と聞かれるとて少々難しい問題だと思います。


 よく「合気道は剣から生まれた」、「合気道は剣と槍の動き」、「合気道は剣を持てば剣、杖を持てば杖、あらゆる武の再現が可能である」等々、剣などの武器術についての共通性が語られます。


 基本的に日本武術は、剣の身体運動を機軸に展開してきたので、もちろん動きは似ています。


 ‥がしかし、合気道の動きの「全て」が武器術の動きと一致しているとは思えません。


 以上のような理由から先進的な師範方が「剣・杖の型」などを合気道の身体運動から開発したり、他の武道(居合、神道夢想流など)を取り入れたりして疑問点を無くそうと努力されています。


 面白い取り組みですよね。


 私も各師範の講習会等に参加して学んだことがありますが、解釈も個性的でたいへん勉強になりました。


 しかし、何かしっくりしない自分がいました。
 違和感と言っていいかもしれません。


 その後、私も様々な古武道を学び剣・槍・その他の武器術を学びましたが、合気道と一致する部分もあれば、そうでない部分も多く、正直、迷いました。


 しかし、境地が高いといわれる古武道流派(剣・槍など)との共通点はやはりある。


 それは「理合」です。


 勝つ道理だけは共通しています。


 このようなことから、合気道は剣の身体運動から生まれたのではなく「合気道は、日本武道の粋である剣と槍の理合から生まれた」というのが正しい表現ではないかと考えています。
 

 結局、合気道というものは「理合だけの武術である」というのが私の考えです。


‥つづく



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